その夜の客は、どこか最初から違っていた。
言葉数は少ないのに、視線だけがやけに長く残る人だった。
こちらが微笑みを作るたび、その奥を確かめるように見つめ返してくる。
仕事としての会話のはずなのに、何か別の意図が静かに混ざっていくのが分かる。
「体験入店」という肩書きで、この場所に立っているだけのはずだった。
それなのに、その人の前では、用意してきた自分の形が少しずつ崩れていく。
「慣れてるようで、慣れてないですね」
そう言われた瞬間、胸の奥がかすかに揺れた。
否定できなかった。
むしろ、見透かされたことに小さな安堵すら感じていた。
距離は近いはずなのに、触れられない。
その一歩手前で止まる空気が、逆に熱を帯びていく。
視線が交差するたびに、言葉にできない沈黙が増えていく。
これは仕事だと、何度も心の中で繰り返す。
それでも、その人と向き合っている時間だけは、別の人生のように流れていった。
「こういう場所、初めてじゃないでしょう」
不意に投げられた言葉に、呼吸が一瞬だけ乱れる。
初めてかどうかではない。
問題は、ここで“自分が何になっているか”だった。
妻としての私でもない。
母としての私でもない。
ただ、誰かの前で“女性として見られている私”。
それが、こんなにも危ういものだとは思っていなかった。
視線を逸らそうとしても、逸らしきれない。
沈黙の中で、ほんの少しだけ時間が長くなる。
その「少し」が積み重なって、境界線が曖昧になっていく。
やがて時間が来る。
終わりの合図が、あまりにも現実的に響く。
「また来ますよ」
その一言は、ただの社交辞令のはずだった。
けれどなぜか、それが嘘ではないと分かってしまう自分がいた。
扉が閉まったあと、私はしばらく動けなかった。
胸の奥に残っているのは、仕事の疲れではない。
触れられなかった距離と、触れそうだった錯覚。
そして、そのどちらにも属さないまま残った、小さな熱。
それはきっと恋と呼ぶには曖昧で、
けれど確かに“何かが始まりかけた夜”だった。
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